映画:ソーシャル・ネットワーク

映画『ソーシャル・ネットワーク』を鑑賞。





これを観た人たちがソーシャルメディアについて語ろうが、
コミュニケーションについて語ろうが、
デヴィッド・フィンチャーについて語ろうが、
サントラのかっこよさについて語ろうが、
賞賛しようがディスろうが、
そのすべてが結局Facebookの宣伝になるという仕組み。
完璧な宣伝映画。
(オフィシャルには法廷記録を元に、Facebookの指示を無視して勝手に作ったとのことだけど、そんな無茶苦茶通るわけがない)
そして実際に素晴らしい宣伝効果があったと思う。
思わず語らずにはいられない、
それだけの魅力を持っている映画だったからだ。





思わず本作について語りたくなる理由、1つ目。
それはすべての演出が快楽的なことだ。





高揚感を煽る音楽、
観るものを切り刻むような鋭角的なシーンの数々…。





これまでのデヴィッド・フィンチャー作品のような特異な演出はほぼなかったけれど、
一つ一つの絵は相変わらずシャープで無機質で快楽中枢によく馴染むものだった。





しかし、
今回映像よりも刺激的だったのはセリフ回し。





トランシーでアシッドでトライバルなトラックを、
スキのない流れ、
飽きのこない間の取り方で聴かされてる時みたいに気持ちがよいものだった。





速すぎて踊れない高速アシッドハウスかのようなマーク ザッカーバーグのマシンガントーク
カットアップを彷彿とさせる彼とその他登場人物たちの時系列を無視した問答、
韻を踏みまくった会話、すべてにクラクラした。





思わず本作について語りたくなる理由、その2。
それはマーク ザッカーバーグを現代人にとっての完璧な偶像として描いた点にあると思う。





才能にあふれる勝者である姿は競争社会に生きる我々にとって崇拝、または尊敬に値するものだし、
孤独でナイーブな人間性、時には過ちを犯してしまうその姿には多くの現代人が共感、同情の思いを寄せただろう。





崇拝、尊敬、共感、同情。
人を虜にするスペックを完璧に備えたその偶像はまるでロックスターのようだった。





さまざまな演出に陶酔させられ、
マーク ザッカーバーグに感情移入し、同化させられたことで、
鑑賞後なんだかFacebookがとてもクールに思えてきた。神々しいとさえ思った。
これって凄まじい宣伝効果だと思う。





Facebookを流行らせようとたくさんの人が躍起になっているのを見ていてキモくてしょうがなかったが、
今回ばかりはちょっと「Facebook・・・かっこ・・・いい」と少し思ってしまった。
こんなに右脳&左脳の脳汁をだらだらと垂らされた状態で何か教え込まれたらひとたまりもない。





この映画を作るために、実際の関係者にどれだけのお金が積まれたのだろうか。
Facebookとマークを神格化するために、どれほど多くの人が口をつむんだのだろうか。





お金を使って無理矢理情報を操作し、
自分(マーク)を映画という商材にしてでもFacebookを売り込むその商魂、気概。
なんてアメリカン。
なんてフロンティアスピリッツ。





しかし、
最後に流れたテロップ「この映画は事実をもとに一部脚色しています」って、
「無料です(一部有料です)」っていうグリーノリと一緒だなーと思う。
無料なわけないし、事実のわけがない。
これから同じノリで著名人が自分のプロモーション映画を作ることが増えそうな気がする。





嘘だろうが本当だろうが情報がすべてということなのだろう。
今の時代に限ったことではないけれど。